昭和23年に荻窪で、長野のそば職人・青木勝治氏が義兄弟4人と共に開業した中華そば「丸長」がルーツです。
「丸長」のラーメンは、青木氏が日本そばの技法を取り入れ、日本で初めてスープにかつお節などの魚介系の食材を使用するなど、それまでのラーメンの主体であった鶏がらベースの「中華系スープ」とは違った画期的なものでした。
現在の「醤油ラーメン」のほとんどは「丸長」が原点となって進化したものと言えます。
この店の創業メンバーだった職人たちがそれぞれ独立し、「丸信」「栄楽」「栄龍軒」と、時期を前後してあらたに3つの店が生まれます。
創業メンバーの一人、坂口正安氏もまた戦前は日本そば職人でした。
坂口氏は「丸長」でラーメン職人としての研鑽を重ねていきます。
その後「栄楽」で働いていた時期に、弟のようにかわいがっていた(いとこの子の)山岸一雄氏を誘い独立を目指します。
山岸氏を「栄楽」で修行させたのち、昭和26年、中野に店を立ち上げます。
「大きく軒並みに勝る」という願いを込めて「大勝軒」と名づけられました。
この店が「大勝軒」の発祥となります。
地元のお客様からの支持を得て順調に売り上げを伸ばし、昭和29年に坂口氏は代々木上原に2軒目をオープン。
こちらを「大勝軒」本店とし、中野は支店として山岸一雄が店長を任されます。
じつは「栄楽」での修行中から、冷たい麺を温かいスープで割った醤油だれにつけて食べる「つけそば」は、まかないとして存在していました。
戦後の食料難で小麦粉自体が貴重な時代。
ざるに残った麺を捨ててしまうことなどできず、なんとかおいしく食べようと「丸長」の創業者、青木勝治氏が「ざるそば気分で」考案したとされています。
ある時、いつものように山岸が厨房の陰でまかないの「つけそば」を食べていたところ、常連のお客様から「うまそうじゃないの。おれたちにも食わせてよ」と声をかけられました。
試しに何人かに食べてもらったところ評判が良かったので、「これはうけるかもしれない」と商品化への研究を始めました。
試行錯誤をくりかえし、ついに昭和30年に「特製もりそば」としてメニューに登場します。
日本そばを「もりそば」と呼ぶ伝統にならい、中華版の「もりそば」ということで「特製もりそば」と名づけられました。
これが商品化された現在の「つけ麺」の発祥となります。
これまでになかった新しいラーメンとして「特製もりそば」は口コミで評判を呼び、人気メニューのひとつとなっていきます。
昭和36年、「大勝軒」最初の暖簾分けとして、山岸が妻と妹の3人で東池袋に出店。「特製もりそば」は店の看板メニューとなり、一躍注目を浴びることとなりました。それと共に、「大勝軒」の名前も全国に知れわたるようになっていきます。
以降、たくさんのラーメンファンからの支持を受け、つけ麺ブームを牽引していきながら「行列の絶えない店」として人気を博します。
その後は山岸を頼ってやってくる「志願者」に大きく門戸を開き、たくさんの弟子を輩出していくこととなります。
約20年間で「暖簾分け」した店は100店を数え、さらには弟子たちが育成した店も合わせると200店を超えるほどとなりました。
持病の悪化で厨房に立てなくなったことや、再開発による立ち退きを余儀なくされたこともあり、平成19年3月、「東池袋大勝軒」は惜しまれつつ閉店しました。
「お茶の水、大勝軒」店主・田内川真介は東池袋からほど近い南大塚で生まれ育ったため、少年期の頃から旧東池袋大勝軒に通っていました。
年の若い常連として、山岸からは実の子供のようにかわいがってもらっていました。
平成7年18歳(大学1年生)の時、旧東池袋大勝軒初のアルバイトとして働きます。
大学卒業後、一度は就職するも「山岸一雄の味」を守りたいという一心から退職し、再び門をたたき弟子入りします。
約一年半の修行で「暖簾分け」を許されますが、その後も店舗を探しながら修行を続けます。
店舗が決まり厨房が出来上がると、山岸監修のもと旧東池袋の味の再現を試み、平成18年9月「お茶の水、大勝軒」をオープンします。
開店前に山岸から「真介、おまえだけは味を変えるなよ。」と言葉をかけられ、自分だけは何も変えないことを心に決めます。
山岸一雄が守りたかった味とは単に自分の味というだけでなく、「丸長」の味を受け継ぐ「栄楽」で学んだ伝統の味、そして「中野大勝軒」で坂口氏と作り上げた「大勝軒」本来の味であることは言うまでもありません。